「赤とんぼ」の模型を手に当時の様子を語る石本さん(久御山町役場)

パイロット目指した戦中振り返る

かつて久御山町にあった「旧京都飛行場」で戦中、パイロットを夢見て訓練に励んだ少年がいた。京都市東山区に住む石本登志夫さん(88)。大空にあこがれた多感な時期を振り返り「夢と希望があれば、どんなことも乗り越えられる」と語りかけた。

◆…1942(昭和17)年4月、小学校卒業と同時に逓信省京都航空乗員養成所(旧京都飛行場)に、4期生で入った。全国に15ヵ所ほどあった、民間パイロットを養成する学校のひとつ。3人兄弟の次男で、当時13歳だった。「学費も服も食事も、全部無料。唯一、長男だけは入学できない決まりだった。飛行場は完成したてで、広い草原が広がりヒバリが鳴いて、とてものどかだった」。
◆…午前6時に起床し点呼を受けると、掃除、朝食を経て学科の勉強が始まる。昼からは教練を受けるが、配属将校の指導が厳しかった。大変だった半面、根性と体力がついた。同期たちとはいつも一緒にいたので、いつしか似た者同士に。「何かあれば連帯責任。けんかなんて一度もなかった」。おかげで、今でも仲良く交流が続いている。
◆…飛行訓練は、動力のないグライダーから始まる。技術をつかむと、練習用の単発機「赤とんぼ」で京都南部の上空を飛んだ。石清水八幡宮の鳥居や淀競馬場の芝が、飛行ルートの目印だった。「ある先輩は赤とんぼで飛行訓練中、同乗していた教官が落下。技術はまだまだだったけど、何とか操縦して帰ってきたよ」。パイロットを夢見て、必死で学んだ。
◆…入学から2年後、戦局が悪化すると養成所は陸軍が接収し、軍の飛行場に。教官と職員は残されたが、学生は各地へ散り散りになった。新潟で整備員をし、そこで終戦を迎えた。
◆…「特攻隊のパイロットの中には、養成所出身の人もいた。知識があって腕がよかったから、みんな敵艦に命中したよ」。出陣した先輩には、日の丸のはちまきに寄せ書きして渡した。先輩は米軍の空母に体当たりして亡くなったが、米兵が海に浮かぶはちまきを拾っていた。10年ほどたち、日本に戻ってきた。
◆…戦後、養成所の同期や教官、卒業生などに呼び掛け「京都翼の会」を立ち上げた。「結成式を久御山の中央公民館でやり、200人集まった。今では生存者も減り、連絡が取れるのは40人ぐらいかな」。大切に保管してきた当時の飛行服や制服は来月、八幡市にある飛行神社へ奉納する。
◆…戦後の飛行場は、米軍基地への転用などを恐れた当時の府が、農地や工場用地へ充てた。「もし戦争がなければ、今年で80期生。京都から巣立ったパイロットたちが、世界中を飛んでたんだろうな」。思いをはせた。

講演会は、町主催の平和祈念集会の後に実施。引き続き参加した大勢の人が、石本さんの語りに耳を傾けた。【盛川振一郎】