宇治川太閤堤跡(宇治市菟道丸山、宇治乙方)の発掘調査を続けている宇治市歴史まちづくり推進課は12日、当初の護岸とその後の洪水で埋まった後に造り直した護岸が新たに見つかったと発表した。築造直後はその維持に注意が払われていた太閤堤(たいこうつつみ)だが、江戸時代の中期以降になると焼き損じて廃棄された瓦の捨て場と化しており、堤の変遷を探る上で興味深い。15日(土)午後1時30分~3時まで現地説明会を開く。

洪水で埋没、その後に修築
石積み護岸の構造が判明

京阪宇治駅に近い宇治川右岸から見つかった宇治川太閤堤では、急流から川岸を守るため、岸から川に向けて亀の甲羅に似た「石出し」と呼ばれる石積みの護岸施設が4ヵ所から見つかった。
石出し工法がわが国に紹介されたのは、これまで明治時代にオランダ人技師のデレーケだと考えられており、宇治川太閤堤跡での発見は石出しの水制工法が安土桃山時代から日本にあったことを示す発見として話題を呼んだ。
 今回の発掘調査は、4ヵ所の石出しのうち最も上流にある石出し④=地図参照=の下流部で実施。洪水で流されて堆積した土砂の上に石積みして護岸を造り直した江戸時代の修築護岸が見つかった。
最も保存状態の良い石積み護岸は高さ約1・1㍍。石積みは20㌢ほどの角ばった粘板岩や丸い岩を石垣のように積み上げ、その後ろに握りこぶし大の石を詰めた。
多量に出土した瓦の中には宇治乙方在住の瓦師の山田源左衛門の銘のある瓦があり、これらの瓦は宇治をはじめ、巨椋池(おぐらいけ)周辺の社寺で江戸時代中期の1700年代に用いられており、あいつぐ洪水で埋もれても修理されなく、近くで営んだ瓦窯の捨て場となっていたことがわかるという。
修築護岸は下流14㍍の長さで続き、調査区外まで伸びているという。約90㍍間隔で見つかった石出しのうち①と③の周辺でも護岸修理の跡が見つかっているほか、前回の石出し④の発掘調査では付け根にあたる両側でも修築した石列が見つかっており、築堤後の時代の変遷がよくわかるという。
宇治川の治水のためでなく、水流を伏見城下に集め、伏見港の機能を高めるために築造した一大土木工事だが、江戸時代の中頃も過ぎると護岸の上に瓦が投棄され、やがて洪水の土砂に埋まって陸地化し、明治時代には茶園が営まれるようになる。
2007年から11年間にわたって続いた発掘調査は今回で終止符を打つ予定で、歴史まちづくり推進課では「一連の調査結果をもとに、現在につながる太閤堤の歴史を伝える史跡公園の整備を行ってた行きたい」としている。【岡本幸一】
【写真は石出し④の下流側で見つかった江戸時代の修築護岸。川の増水で地下水がたまり、高さ約1・1㍍の護岸の上部しか見えていない】

≪宇治川太閤堤≫
1594年(文禄3年)、豊臣秀吉が宇治橋付近から伏見城に向かう街道や水運の充実を図ろうと、徳川家康や前田利家ら名だたる大名に命じて宇治川の堤防を付け替えた際に築造した総延長12㌔の護岸施設。
07年に堤の一部が宇治橋下流(右岸)で出土。太閤堤はこれまで左岸の槇島地区で見つかっていたが右岸では初めてで、保存状態の良さから当時の治水技術の高さを知る遺跡として注目を集めた。
09年7月に京阪宇治駅から下流の菟道稚郎子墓にかけた約2㌶余りが「宇治川太閤堤跡」として国の史跡指定を受け、宇治市が史跡公園整備を進めている。